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京都大学のあゆみ

トピックで振り返る

高等教育机関进学者の増加や产业の発展などを背景に、京都大学の前身?京都帝国大学が1897(明治30)年创立されました。以来125年间の主な出来事を、写真とともに振り返ります。

  1. 1897(明治30年)

    • 京都帝国大学创立

      1897(明治30)年6月18日、勅令第209号が制定され、京都帝国大学が创立された。高等教育机関进学者の増加、日清戦争后の产业の発展などが创立の背景にあった。最初は理工科大学(理学部と工学部の前身)が置かれ、次いで法科大学(法学部の前身)、医科大学(医学部の前身)、そして文科大学(文学部の前身)が置かれた。创立当初の学生数は47名、教官数は9名であった。

      京都帝国大学创立イメージ

      正门と本馆。本馆は、现在の时计台の位置にあったが、1912年に焼失した。

    • 理工科大学设置

      1897(明治30)年、京都大学创立とともに理工科大学(理学部と工学部の前身)が设置された。最初に置かれたのは土木工学科と机械工学科であった。理科と工科を一つにまとめたのは、経费节减を考虑しただけでなく、基础と応用を一体化させたいという狙いもあったとされるが、1914(大正3)年には理科大学と工科大学に分离した。

      理工科大学设置イメージ

      理工科大学第1回卒业生と教官たち(1900年)。后ろに见えるのは図书馆。

  2. 1899(明治32年)

    • 法科大学设置

      1899(明治32)年、法科大学(1919年法学部と改称)が设置された。设置当初の法科大学は、既设の东京帝国大学法科大学とは异なった教育システムを採用した。学生?教员相互の启発を重视したゼミナール制や、卒业论文を导入したほか、科目选択の自由度も拡大して学生の自発性の唤起に努めた。こうした制度は当时のドイツの大学にならったものと言われている。

      法科大学设置イメージ

      法科大学东大讲堂。仪式场としても使われた。

    • 医科大学?附属医院设置

      1899(明治32)年、医科大学(1919年医学部と改称)が设置された。京大创设计画が具体化した当初は、医科大学のみ大阪に置く案が有力だったが、京都侧が诱致运动を展开して京都设置を実现させた。また同じ年に附属医院(1949年附属病院と改称)が开设され、诊疗が开始された。医科大学?附属医院は、他分科大学に比べいちはやく拡充の道を进み、キャンパスが整备されていった。

      医科大学?附属医院设置イメージ

      医科大学正门から北をのぞむ(1910年顷)。中央の南北を贯く道は现存している。

      医科大学?附属医院设置イメージ

      附属医院本馆。

    • 附属図书馆閲覧开始

      1899(明治32)年、附属図书馆の閲覧が开始された。海外も含めて各所から図书を购入し、また寄赠の依頼も行い、开馆时には和洋合わせて5万册以上の蔵书数となっていた。京都大学の図书馆は、学生にも书库内の検索や书籍の贷出を许可するなど开かれた制度を导入し、実现はしなかったが一般への公开も考えられていた。なお、最初の建物は1936(昭和11)年に焼失し、现在の建物は1984年开馆の叁代目である。

      附属図书馆閲覧开始イメージ

      中央が设置当初の附属図书馆閲覧室。右奥に书库が见える。左に建っているのは尊攘堂(现存)。

  3. 1906(明治39年)

    • 文科大学设置

      1906(明治39)年、文科大学(1919年文学部と改称)が设置された。创立期の文科大学は、人材登用のユニークさに特色があり、新闻界から内藤虎次郎(湖南)、文坛より幸田成行(露伴)を招き、帝国大学选科(特定の科目のみ受讲)修了の学歴しかない西田几多郎も呼び寄せた。教授と学生との间の自由な讨议も活発で、「厳めしい帝大」ではなく「近代的な寺子屋」で学んでいる感じを受けたと当时の学生は语っている。

      文科大学设置イメージ

      1909年竣工の文科大学研究室。文科大学独自の建物としては最初のもの。

  4. 1914(大正3年)

    • 理工科大学、理科大学と工科大学に分离

      1914(大正3)年7月、理工科大学は理科大学と工科大学に分离した。京都大学创立当初は、一つの分科大学として置かれた理科と工科は、学术研究の进歩とともに、より学理的な追究を行う前者と応用的な学问を中心とする后者に分かれることとなった。理科大学は数学?物理学?纯正化学の3学科(11讲座)、工科大学は土木工学?採鉱冶金学?机械工学?电気工学?工业化学の5学科(26讲座)でのスタートであった。

      理工科大学、理科大学と工科大学に分离イメージ

      理科大学化学教室、1914年竣工。ちなみに工科大学の工业化学教室は、栋続きの北隣にあった。

      理工科大学、理科大学と工科大学に分离イメージ

      工科大学土木工学教室、1917年竣工。现存。

  5. 1919(大正8年)

    • 法?医?工?文?理の各分科大学を学部に改称

      1919(大正8)年、大学についての包括的な法令である大学令が施行され、初めて公立?私立大学が认められるとともに、従来の分科大学は学部に改称された。京都大学でも、この年4月に法?医?工?文?理の各分科大学が学部に改称された。他にも、この时期の大学にはさまざまな改革が実施され、9月始まりだった学年暦が4月始まりとなった(1921年)ほか、教授の停年制も导入された(京都大学では1923年)。

      法?医?工?文?理の各分科大学を学部に改称イメージ

      大学院入学宣誓式の様子(1928年)。当时は学生が1人ずつ宣誓簿に署名した。

    • 経済学部设置

      1919(大正8)年、経済学部が设置された。帝国大学においては、当初経済学関係の讲座は法科大学に属していたが、东大ではこの数年前から独立の动きがあり1919年4月に経済学部が置かれ、京都大学もそれに続いて翌5月に独立が実现した。设置当初の讲座数は8、最初の入学者数は106であった。

      経済学部设置イメージ

      1916年竣工の法学部経済学部研究室(现在の法経済学部北馆の场所)。経済学部は法学部と建物を共用した。

  6. 1923(大正12年)

    • 农学部设置

      1923(大正12)年、农学部が设置された。京都大学に农科を设置しようとする动きは早くからあり、それがこの时期の高等教育机関拡张政策と结びついて设置に至った。用地は京都市からの寄附金などによって白川村?田中村の田畑?宅地を买収して取得した(现在の北部构内の东部分と北部分)。设置当初は6学科が置かれ、最初の入学者は55名であった。また、翌1924年には附属农场と、附属演习林(すでに外地に置かれていた演习林を含む)が设置された。

      农学部设置イメージ

      农学部设置から間もないころの北部構内全景。中央に見えるのが農学部本館(1923年竣工)。

  7. 1925(大正14年)

    • 时计台竣工

      1925(大正14)年、「时计台」と称され京都大学のシンボル的な建物である本部本馆が竣工した。建てられたのは、创立期京大の中心的建物であった理工科大学本馆がかつてあった场所であった(1912年に焼失)。设计の中心は工学部建筑学科初代教授の武田五一で、2,000人収容の大ホール、総长室、食堂、法経の教室などが置かれた。また、北侧にあった半円形の法経第一教室は学内で最も広く、授业だけでなく讲演会や学生大会などにも使用された。

      时计台竣工イメージ

      时计台前の学生たち(1938年顷)。时计台前のクスノキは1934年の室戸台风で折れてしまい、翌年2代目が植えられたので、この时はまだ小さい。ちなみに、初代が植えられたのは时计台より早かったことは分かっているが、正确な年代は不明。

  8. 1933(昭和8年)

    • 滝川事件

      1933(昭和8)年、滝川幸辰法学部教授の着作?讲演などがマルクス主义的であるとされ、文部省より休职または退职を求められた。法学部の教官は、このような政府による学问研究への介入があると真理の探究という大学の使命が果たせなくなるとして、これに抗议して総辞职を表明、结局専任教官33名のうち滝川を含む21名が京都大学を去った。

      滝川事件イメージ

      法学部教官の総辞职表明を伝える新闻记事。

  9. 1936(昭和11年)

    • 田岛直人、ベルリンオリンピックで金メダル获得

      1936(昭和11)年8月、第11回オリンピック大会がベルリンで开催された。水泳の前畑秀子や、マラソンで当时植民地统治下にあった朝鲜出身の孙基禎の金メダルで有名なこの大会で、この年3月に京都大学経済学部を卒业した田岛直人が、叁段跳びで16尘00の世界记録を出して金メダルを获得した。このとき同竞技で银メダルを获得したのも同じくこの年3月に法学部を卒业した原田正夫であった。また、田岛は走り幅跳びでも铜メダルを获得している。

      田岛直人、ベルリンオリンピックで金メダル获得イメージ

      东京日日新闻 1936年8月7日

  10. 1940(昭和15年)

    • 学旗?学歌制定

      1940(昭和15)年、学旗および学歌が制定された。これは、前年に催された陆军现役将校学校配属令施行十五年记念の亲閲式において、天皇から荒木贞夫文相に与えられた「青少年学徒ニ赐ハリタル勅语」の趣旨に応えるとして企画され、卒业生を含む関係者から旗の意匠および学歌の词の案を募集して定められたものである。审査の结果採用された朱色の地の中央に「大学」の二字をあしらった学旗、「九重に花ぞ匂へる」で始まる学歌は现在も使われている。1940年2月11日、制定式が挙行され両者は披露された。

      学旗?学歌制定イメージ 学旗?学歌制定イメージ

      时计台2阶大ホールで催された学旗学歌制定式の様子

  11. 1943(昭和18年)

    • 学生の徴集犹予停止(「学徒出阵」)

      1943(昭和18)年10月、それまで认められていた高等教育机関在学者の徴集犹予が停止され、文科系を中心とした学生たちは陆海军に入队することになった。京都大学からも、このとき2000名近くの学生が入队した。その后、败戦までの间にも学生の入队は続き、京都大学からは戦争の期间中4700名を超える学生が入队し、264名が学生の身分のまま戦死したことが判明している。

      学生の徴集犹予停止(「学徒出阵」)イメージ

      农学部グラウンドで行われた出阵学徒壮行式の后、正门を出る学生たち。

  12. 1946(昭和21年)

    • 最初の女子学生入学

      戦前日本の大学における女子学生の入学は限定的なものであった。败戦后の1945(昭和20)年12月4日の阁议谅解「女子教育刷新要纲」で、女子に対する高等教育机関の开放が唱えられ、京都大学でも翌年初めて正规の学生として女子を受け入れることになった。入学者は文学部12名、理学部2名、法?経済?农学部各1名の合计17名、全入学者1,505名のわずか1.1%であった。

      最初の女子学生入学イメージ

      女子学生を囲む讨论会の様子(北部食堂、1954年)。

  13. 1947(昭和22年)

    • 京都帝国大学を京都大学に改称

      1947(昭和22)年10月1日、従来京都大学をはじめ帝国大学について规定していた法令「帝国大学令」が改正され、「帝国大学」は「国立総合大学」と改められることになった。それに伴い各帝国大学の名称から「帝国」が外れ、京都帝国大学も京都大学に改称された。

  14. 1949(昭和24年)

    • 新制京都大学発足

      戦后の教育改革によって、六?叁?叁?四制といわれる新たな教育制度が导入され、1949(昭和24)年5月、新制の国立大学が一斉に発足した。京都大学も、第叁高等学校と戦时中に置かれた附属医学専门部を包括して新制大学としてのスタートを切った。一般教育も开始され、京都大学は宇治と吉田に分校を设置してこれに当たることになった。

      新制京都大学発足イメージ

      京都大学吉田分校。第叁高等学校の跡地に置かれた。1954年に教养部と改称した。

    • 教育学部设置

      1949(昭和24)年、新制京都大学発足とともに教育学部が设置された。学部学生を少数にとどめて大学院コースを重视する、全学学生のための教职课程を设ける、现职教员の再教育を行う、という目标が立てられての设置であった。当初研究室や教室は复数部局からの间借りでまかない、1956年になって丸太町通南侧熊野神社の向かい(现在の熊野寮の场所)に校舎が置かれた。本部构内の现在の场所に移転したのは1965年である。

      教育学部设置イメージ

      熊野校舎前での新入生歓迎会の様子(1960年顷)。

    • 汤川秀树教授、ノーベル赏受赏

      1949(昭和24)年11月3日、スウェーデン王立科学アカデミーは汤川秀树理学部教授へのノーベル物理学赏授与を発表した。汤川の受赏は、中间子论の业绩に対するものであり、日本人初の栄誉であった。京都大学は汤川の受赏を记念して、最初の全国共同利用研究所である基础物理学研究所を1953年に附置した。

      汤川秀树教授、ノーベル赏受赏イメージ

      毎日新闻 1949年11月4日号外

  15. 1950(昭和25年)

    • 宇治分校开校

      新制京都大学は、一般教育を教授する部局を分校と称し、吉田と宇治に设置した。宇治に分校が置かれたのは、第叁高等学校の跡地である吉田だけでは学生を収容しきれなかったことと、専门课程から离れたところで人间形成を行うのが効果的と当时の鸟养利叁郎総长が考えたことによる。1950(昭和25)年开校の宇治分校では1回生の授业が行われることとなった。しかし、吉田との距离が远く宇治キャンパスの整备も进まなかったため、统合の声が强まり、吉田分校における建物増筑が実现した1961年に一般教育课程は吉田に统合、宇治分校は廃止された。

      宇治分校开校イメージ

      宇治分校の风景。右侧は大讲义室。

  16. 1960(昭和35年)

    • 薬学部设置

      1960(昭和35)年、薬学部が设置された。1939年に置かれた医学部薬学科がもとになっており、それが学部として独立した背景には戦后における生物学的な基础研究?教育の充実があった。学部设置当初は薬学科のみで7讲座であったが、翌年には製薬化学科が置かれ、讲座も1960年代半ばには13となった。

      薬学部设置イメージ

      竣工当时の薬学部本馆(1966年)。京都织物会社から购入した土地を薬学部用地として使用した。

  17. 1969(昭和44年)

    • 纷争の本格化

      1960年代后半、全国の多くの大学でいわゆる大学纷争が発生したが、京都大学においては1969(昭和44)年1月の学生部封锁が発端となり、纷争が本格化した。この封锁は警察の力を借りずに解除されたものの、以后学生同士の衝突が相次ぎ、入学试験は学外での実施を余仪なくされ、教养部や多くの学部で封锁や授业の休止が続いた。最终的には9月21日に机动队の导入によって时计台などの封锁が解除、12月までには全学で授业が再开された。

      纷争の本格化イメージ

      4月11日に本部本馆2阶で催された入学式。一部学生の乱入によって开式直后に中止となった。

  18. 1984(昭和59年)

    • アメリカンフットボール部、ライスボウル(日本选手権)优胜

      1970年代に入って関西で実績を残しはじめていたアメリカンフットボール部ギャングスターズは、1982(昭和57)年に関西学院大学を破り関西学生リーグ1位となった。翌1983年12月には甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)で関東学生リーグ王者の日本大学を破り优胜、翌1984年1月のライスボウルでも社会人代表を破り、日本一に輝いた。

  19. 1992(平成4年)

    • 総合人间学部设置

      1992(平成4)年10月、教养部を母体として総合人间学部が设置された。文理融合の新しい学问体系を生み出すことを目的とし、副専攻制度などの特徴的なカリキュラムが整备された。人间学科、国际文化学科、基础科学科、自然环境学科の4学科13讲座でスタートし、1993年4月に第一期生133名を迎えた。

      総合人间学部设置イメージ

      総合人间学部栋。1998年に竣工した。

    • 大学院重点化の开始

      1991(平成3)年の大学审议会の答申を受けて、国立大学の一部で大学院を体系的に整备する大学院重点化が始まった。大学院を高度な専门教育を実施する组织として学部から独立させ、学部に所属していた教官の所属を大学院へ移すことで予算措置が讲じられた。京都大学ではまず1992年法学部で大学院重点化を実施し、翌年以降、医学部、工学部と続き、1998年の教育学部をもって终了した。その结果、各研究科の入学定员は修士课程?博士后期课程ともに大幅に増加し、博士学位取得者(课程博士)の着増が认められるようになった。

  20. 1993(平成5年)

    • 教养部廃止

      大学纷争以降、一般教育のあり方を见直す全学的な议论の中で教养部改革の动きも本格化した。教养部が示したいくつかの改革案はなかなか全学的议论に至らなかったが、最终的に全学委员会による「学术総合研究科」构想に引き継がれ、1991(平成3)年に大学院人间?环境学研究科が设置された。翌年には総合人间学部も设置され、従来の一般教育は4年一贯教育として全学的协力のもと主に総合人间学部が提供することとなり、1993年3月に教养部は廃止された。

      教养部廃止イメージ

      教养部全景(1960年代半ば顷)。

  21. 1997(平成9年)

    • 创立百周年记念事业を実施

      1988(昭和63)年に创立百周年记念事业の実施が决定され、その実现のために募金活动が开始された。百周年を迎えた1997(平成9)年には『京都大学百年史』(全7巻)の刊行が始まり、同年11月には记念式典をはじめ特别讲演会や音楽会が开催された。1998年度から若手研究者の海外派遣など国际交流の推进を目的とした助成事业も始まり、2003年には本部本馆を改修した百周年时计台记念馆が完成した。

      创立百周年记念事业を実施イメージ

      1997年11月2日、京都会馆(现在のロームシアター京都)で开催された创立百周年记念式典の様子。

  22. 2003(平成15年)

    • 大学院工学研究科、桂キャンパスへ移転开始

      1980年代に入ると学部や复数の独立研究科を设置する构想案が登场し、吉田、宇治に続く新キャンパスの必要性が検讨されはじめた。当初は、京都府南部の京阪奈丘陵地区が有力な候补地であったが実现には至らず、最终的に桂?御陵坂地区(京都市西京区)を桂キャンパスとし、工学研究科及び情报学研究科の移転が1999(平成11)年9月の评议会で决定された。2003年6月に工学研究科化学系及び电気系専攻が桂キャンパスへの移転を开始した。

      大学院工学研究科、桂キャンパスへ移転开始イメージ

      2003年10月、桂キャンパスで工学研究科の后期授业が始まり、教育研究活动が本格的にスタートした。写真は化学系?电気系専攻が入る総合研究栋。

      大学院工学研究科、桂キャンパスへ移転开始イメージ

      桂キャンパスの航空写真(2006年撮影)。丘陵地帯に位置し、复数のゾーンで构成される。これ以降も建设工事が进められ、2019年には図书馆が完成した。

    • 百周年时计台记念馆竣工

      京都大学创立百周年记念事业の一环で、従来の本部本馆に大规模な改修工事が行われた。学术交流の场、社会への情报発信の场として生まれ変わることが目的で、正面の外観は残しつつ、北侧に设けられていた法経第一教室は全面ガラス张りの百周年记念ホールになったほか、国际交流ホール、歴史展示室やショップ、レストランなども置かれた。最新の免震构法も取り入れられ、名称は百周年时计台记念馆と定められ2003(平成15)年に竣工した。

      百周年时计台记念馆竣工イメージ

      さまざまな式典が执り行われる百周年记念ホール。

  23. 2004(平成16年)

    • 国立大学法人京都大学発足

      国立大学法人法が施行され、2004(平成16)年4月国立大学法人京都大学が発足した。法人化の议论は、1990年代以降の大学改革の流れに行政改革の観点が加わった形で进められていた。国の组织から制度上独立し学长の権限を强化することで、弾力的な大学运営及び教育研究の活性化につながるとされ、学外者を含めた学内管理体制が整备された。また、大学ごとに目标?计画を策定し、それに対する第叁者机関の评価结果を大学への资源配分に反映させることとなった。

  24. 2006(平成18年)

    • 京都大学同窓会発足

      创立以来、同窓会は各学部や研究科単位、地域単位、クラブ?サークル単位などで组织され、それぞれが活発に活动してきた。法人化后の2006(平成18)年、はじめて大学全体の同窓会组织として京都大学同窓会が発足した。各同窓会とゆるやかに连携し、それぞれの活动を支援するとともに、毎年11月にホームカミングデイを开催している。

  25. 2007(平成19年)

    • 京都大学基金创设

      大学全体で寄附を受け入れる総合窓口として、2007(平成19)年に京都大学基金が开设された。集まった寄附金は积み立てて、基金运営委员会が管理し大学全体で活用する。今まで学生の修学支援や奨学金制度の创设、颈笔厂细胞に関する研究活动等に使われてきた。その后、各部局の申请に基づく特定基金も次々と设置され、特定のプロジェクトを支援するためにも活用されている。

  26. 2017(平成29年)

    • 指定国立大学法人に指定される

      2017(平成29)年、国际竞争力を高めることを目的とした指定国立大学法人制度が始まり、京都大学は产官学连携の构筑や新しい学术分野の开拓などを掲げた将来构想が认められ、文部科学大臣より指定国立大学法人に指定された。指定により、法人の出资规制が缓和されるなど特例が适用されるようになり、翌年、研究成果の事业化を目的とした子会社、京大オリジナル株式会社を设立した。学内では组织横断的な课题を调整し、ガバナンスを强化するためプロボスト制を导入した。

  27. 2022(令和4年)

    • 创立百二十五周年

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